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【映画】自分の信仰は「沈黙 - サイレンス」に出会ってから狂った


映画『沈黙-サイレンス-』アメリカ版予告編

沈黙を見て、予想通りまた深ーい沼にハマりました。
小説を2回ほど読んだことがあり、そのたびに揺れ動かされる1冊。小説で言えばこれ以上自分の人生観に影響を及ぼしたものは他にないです。
そんな映画がマーティン・スコセッシ監督により映画化すると聞いて去年から公開をたのしみにしていました。
(ちなみに映画化されるのは今回で2度目)

作品に触れるたびにインパクトというかショックを受けてその後の世界の見方が変わってしまうので、観る前に自分の現状の沈黙レビューというか沈黙を読んだ時の自分の考えをまとめておこうと思ったのですが忙殺されてかなわず。でもとにかく今の気持ちは書き留めておこうと思ったのでここに投稿します。

ネタバレを含むので大丈夫な人だけ読んでください。

後、この記事はまとまってません。読みにくくてすみません先にお詫びします。
その代わりできるだけ正直に書いています。


宗教の限界、クリスチャ二ティの限界。人の限界。

見るたびにこの世に存在する物事の「ものさし」の限界を感じます。僕がここで言うものさしというのは測りごとの時に使う基準のことですがこれは万能ではないなと感じるわけです。

「沈黙」は文化、宗教、信仰、人、命をバイアスを捨てた上で真っ向から挑戦してくる作品です。

人の一生、人の心とはどうやって見分けるものなのでしょうか?
誰が善く誰が悪いのか。どうやって判断するものでしょう?

多くの場合、その人の言動で判断することとなると思います。五感で感じるものから判断せざるおえないですからね、基本的には。自分の心は内から湧き上がって外に滲み出て、行動へと昇華されていく。そしてその行動は、その行動が実らす果実よって判断することができる。と言うのが普通ですね。

ただし、現代においてその考え方はだんだん疑問視されているような気もします。
ポリコレと言う言葉だったりPost-truthという言葉を最近耳にしますが、多様な価値観が可視化されやすくなった今、物事の善悪の判断はしにくくなっています。人の心とは立場や環境によっても大きく簡単に左右されてしまうものだからです。

それが人の心です。
それだけ脆く弱く壊れやすいのが人の心の本当の姿なのです。度々そういった描かれ方を映画でもされてきましたが、ここまでリアルに人の心のありのままの姿を表現した映画はないのではないかと感じました。

わかりやすい例でいうとBATMAN DARK KNIGHTでも悪と正義の中で揺らぐ人の心が描かれたりしますが、基本的にはその中での義を描き、悪と正義がハッキリすることでわかりやすい希望を観る人に与えエンターテイメントへと昇華しています。

「沈黙」ではそうは描かれていません。善悪はもちろん、救われるものとそうでないもの、神様を信じるものとそうでないもの、もっというと「人と人」との間の境界がどんどん曖昧になっていきます。


映像で見て気づいたキリシタン迫害の酷さと恐ろしさ。

小説ではまるで歴史の教科書の一文のように「昔はよくあった、その時代特有の悲惨な話。」程度に感じた拷問、処刑の描写。映像だと何倍もインパクトがあり涙なしには見られませんでした。自分のアイデンティティにも関連する部分なのでその故にこんな残酷な仕打ちを受けなければいけないというのはとても悲しく、怖いことでした。

日本では今や宗教に寛容な国というイメージがありますし、色んな宗教も許容する概念として八百の神も日本の宗教観の象徴として使われたりします。そしてクリスチャンとして生きていると必ずと言っていいほど十字軍などの話やキリスト教を筆頭とする”宗教は争いの種でしかない”という、あらゆる争いの起源だ見たいな話を宗教を信じていな人からされるのですが、別に特に害(井上や当時の日本の幕府は統治する上で害があったと見ているようですが)をもたらしていた訳でもない、反モラル的な事を行なっていた訳でもないキリスト教徒をあのように迫害するのは「日本はなかなかにとんでもねぇな。」と思いました。こんな迫害が事実あった上で、日本は宗教を許容する土壌があるだなんて言えないよな...と。

日本でクリスチャンの家族に生まれ、クリスチャンとして育って来た自分のそこらへんの気持ちは過去にブログを書いたことがあります。
100poke-ballin.hatenablog.com

またこのような酷い拷問、処刑をする日本の幕府側にも大義名分があり、日本の和を守り抜くべく、最大限の譲歩をしつつキリスト教の司祭に歩み寄っていた様が描かれており、文化によって違う正義の難しさをひしひしと感じました。

こういう場合、宗教が恐れられる理由というのは信仰心が火種となってその時代の弱者を団結させ、生きる活力を与え力づけ、各時代においてなんども「奴隷解放」などの革命を起こしてきたからなどだと思います。パワーバランスに変革を及ぼしそうだと感じたから根を絶やそうとした...。「それだけの理由で?本当に良い教えを共有しようと思っているだけなのに..。」と宗教を信仰する人は思ってしまいがちだと思いますが、これは日本からして見たらそれが真実なのかどうかは関係なく”日本の和、日本のルール”を乱すものは悪な訳ですね。だからその教えや神の存在が本当かどうかというのはどうでも良い話なんです。これは日本の本当に根深いところから今に続く文化というか国民性なんじゃないかなって感じます。島国故...ってこともあるかと思います。

とにかくビジュアルでいかにロドリゴが、隠れキリシタンが、想像を絶するほどの厳しい試練に直面していたのか伝わってきます。これは映画で見て良かった点でした。


映像と共にさらにシンクロする彼らの苦悩・恐れ。自分の価値観も同時に大きく揺り動き始める

この迫害が生々しく伝わってくればくるほど、ロドリゴの悩みも重さを増して伝わってくる。

助けに行く立場から助けられる立場、司祭という立場から一人のか弱い信者、信じるものから疑うものへ...とどんどん自分を覆っていてば立場や役目というものが剥がされて行く様は怖いくらいリアリティがある。

ていうか、本来はやっぱりそうなのだ。みんな「ただの人。」なのだ。ローマ法王ダライ・ラマも、そこらへんのお坊さんや牧師さんと同じだし、牧師さんや坊さんもやはり人、そして救いようがないような惨めなキチジローも、日本のため立派に責務をこなすいのうえもみんな人だ。「義人」や「聖人」なんて人は一人もいない。なのにこの世では人の上に人を作りたがる。何か賞を取ることがその人の人間性を裏付けるとでもいうかのようにその人の信仰の深さがその人と神様との間に何か特別なものを生み出すかのように。(というか基本的に全人類はキチジローだと思う。)


見方によって主な登場人物皆クソに見えるようになっている。

  1. ロドリゴ:あんだけ隠れキリシタンを励ましたのに、踏めだの頑張れだの散々迷った挙句自分も踏むっていうクソ
  2. ガルペ:転ぶだけで救えた命があったのに、頑なに教えや自分の信仰にしがみつき既に転んだキリシタンを死なせたクソ
  3. キチジロー:何を信じているのかも定かではない、浅ーい信仰心しかない裏切り者グセが治らない二枚舌のクソ
  4. フェイレラ:自分だけがつまづくならまだしも、ロドリゴを転ばせる事にも加担するとんでもないクソ
  5. 通辞の浅尾忠信:ロドリゴらが転ぶのを、あの手この手を使って企むクソ
  6. 井上筑後守:空前絶後の理解と慈悲のある幕府の人間と見せかけて、司祭を転ばせるためあらゆる手口を使い、非人道的な迫害を繰り返す、既得権益ヒエラルキーの生みの親のクソ
  7. 信者:あんだけ司祭匿ったり、捕まっても平然を保っていたくせにいざ拷問が始まったら結局踏み絵踏んじゃう不信仰な人、クソ。

7人のクソ

番外編として

  1. 門番:普通に世間話をしているだけと見せかけて、打ち首する準備時間稼ぎに加担したクソ

まるでHateful 8ですね。

「人間らしさ」を登場人物全員もれることなく出すことで、
この中で「神様の目に尊く映るものは誰か。」という問いを残酷な形で投げかけてきます。


イエス・キリストの無条件な愛というのは本当はどこまで無条件なのか?

先ほどいったような非善人が出揃った中、神の救い(罪を犯す人々への救い)というのはどこまでのものなのかということを1から考え直させられるわけです。

仮に、殉教したキリシタンの村人たちそしてガルペのみが救われるとするならば

ロドリゴが転ぶ寸前にフェイレラと神に語られた言葉は果たして完全に否定できる事だろうか?という大きな問いが残る。神様の愛とはユダやペテロにも、またユダヤ人やパリサイ人、それ以外にも平等に注がれているものではないのか?

キチジローが救われているというのであれば

半永久的に転び、口先だけ形だけの信仰心しかなくても良いのだろうか?転ぶたびに口先だけで罪の告白をすれば良いのだろうか?

そしてキチジローが救われているなら、ロドリゴの選択はなおさら間違ったものとは見られないではないのだろうか?

しかしロドリゴを救われていると見るなら(聖職者が公に神を否定したのに)

キチジローはやはり救われてもいいのではないだろうか...。

とここからは無限ループに入る...。

そしてもしキチジローやロドリゴが許されているなら

もともとキリシタンではない人の過ちや不信仰さ、信仰の無さだって許されても良いのではないかとさえ思う。

キリスト教が教える救いのわかりやすい定義の不思議

よくキリスト教の教会でイエス・キリストの救いとは全ての人に送られたギフトだ。」という喩えをする。
つまり、全ての人に送られてはいるがギフトを箱から開けて受け取るかどうかは本人次第だというのだ。

もしギフトを開けてプレゼントを受け取ったのに、いらねー!と言って相手に投げ返すのが許されるのであれば、ギフトの開けなかった人も許されるはずだ。

もしギフトを投げ返したのが本心ではないとしよう。ロドリゴやフェイレラのように苦し紛れにやったから本心ではないので許される、と。
では本心ではないのにギフトを開けて受け取った人はどうなのか?キチジローがあたかもそうであるかのように描かれているように。

そもそも本心とはなんなのか?まるで心にはレイヤーがあって一番下のレイヤーが本当の気持ちだなんて言っているようだ。

心なんてものはあらゆる思いが混ざっているのではないのか?信じる心、憎む心、疑う心、憤る心、悲しむ心。これらが渦巻く中でその時々によって違う心がむき出しになる。その一瞬とそのタイミングとを持ってその人自身を判断しようとは何か虚しいことに思えないだろうか。

キリシタンの周りの登場人物を取って見ても同じだ。キリシタンに酷すぎるほどの迫害をしたものたちも、それを統括していたいのうえも、それぞれの和のために行なっていた。それぞれの正義がある故に、できる限りの譲歩をしながらできれば生き延びる道を選んで欲しいと思っていた。彼らは許されざるべき存在であろうか。

彼らは”信じていたが転んだ”者達と比べて、どう救われようがないのだろうか?

許しを乞うてない、過ちを認めていない、懺悔をしていない、罪の意識がない。これらの事がいけないのだろうか?

クリスチャンの教えの中に、まず自分が相手を許すことをよく言われる。であれば、神様は信じていない人でも許してくれているはず。そうすると信仰を持たない人でもすでに許してもらっているのであり、彼らが許しを乞おうがこうまいが彼らもまた我々と同じように愛され同じような条件のもと神様の前に生きているのではないか?と思ってしまう。

となると我々はもう好き勝手生きて良いのか?それぞれ各々自由に思うままに生きて良いのか???と。

そんな事はない!気がする...。
やはりできれば真実に近づき、この世で普遍なものを理解しそれを大切にして生きたい。
イエス・キリストが私たちを愛してくださっているのだと信じ聖書の教えを守り、敬虔に生きて行きたいものだ。

だが、現実を見るとその真実を見つけたと確信し、その教えを守って生きていると自負する宗教の信仰者ほど嘘っぽいものはいない。

キリスト教一つをとってもそうだ、宗派は百以上あるのではないかというぐらい枝分かれしておりそれぞれが「自分が神に一番忠実だ。」とどんぐりの背比べをしている。

それぞれは互いに関わりを持つことなど少なくそれぞれが微妙な解釈の違いを重んじそれぞれの狭いバブルから出ようとしない。

無信者を偏見の目で見るばかりでなく、信者の間でも偏見の目でお互いを見つめ裁きあっているのだ。それがプロテスタントカトリックと大きく枝分かれしており、もっと辿るとユダヤ教徒イスラム教としても枝分かれしている。だけど、みんな大元の神は同じ神様を信仰しているというんだからカオスだ。

みんなが自分達が正しいって言ってるんだから。ぶっちゃけこの中の誰かが救われるのであれば他も救われる気がする。もしイエスキリストが、こんだけ微妙な違いで争っている自分が作った子供達を見てその中で一番まともな子だけを遊園地に連れて行くとかだったら救い主でもなんでもなくて唯の普通の人間の親だ。

しかも現実問題イエス・キリストを信じているキリスト教の中身は、お互い喧嘩したり勘ぐりあったり、形式だけ信じてたり、週に1回だけ信じてる人っぽいことやったりという子供達が集まってる状態。こんな状態でもキリスト教だというだけで良いのですかね...。

と...とにかく深く迷宮入りするきっかけを与えてくれる「沈黙」。
映画としては以下の点が特に面白いと思いました。

フェイレラの牢屋内でのロドリゴへのささやきは悪魔のささやきか、または愛を行動で表すための助言か

彼がロドリゴに語りかけるシーンは、見方によって天使と悪魔どちらにも見えました。会話のシーンの撮り方もそれを助長していてとても素晴らしかった。

ロドリゴが踏み絵を踏んですぐ、鶏が3回鳴く。

これは聖書でペテロが鶏が鳴くまでに三度私のことを知らないというであろうとイエスに言われた時の出来事を重ねているわけですね。小説ではこのような描写はなかったのですが、イエス・キリストの受難とロドリゴに与えられた試練のシンクロ率を高める「クワァ.....こんなことしてくるか...。」とキリスト教に理解のある人は唸るような演出がありとてもグーでした。

フェイレラとロドリゴの会話

二人は最初にお寺で再開したわけですが、そのシーンはまるで禅問答をしているかのようでした。そんな会話の中で横に座り通訳に耳を傾けるお坊さん。これはとても興味深い描き方でした。ちょっとその意図は理解が難しかったのですが、何か日本に馴染みのある形で会話を演出することでその会話をアジア系の人に向けて染み込みやすいようにしたのかな...とも。これは憶測でしかないですけど。


究極のささやき「イエス・キリストも彼らのために踏んだはずだ。」

こんな重い言葉他にありますか?しかもこれ単純に信者の視点から考えれば悪魔のささやきとも取れるかもしれない一言なのですが、さらにその後に続く神様(と思われる)の「踏みなさい。私は踏まれるためにきたのだ。」という一言...。これは重すぎる。重すぎる。

故にこれがイエス・キリストが存在する所以なのだ、ここまでも深い愛を示してくれていたのだ、僕らには到底理解できぬほど深い愛と慈悲を持つお方なのだ...ここまでに弱い・脆い・罪深い人間をも受け入れてくれる人間なのだ...とハッと自分の不信仰さに気付かされる瞬間でもあるんですよね。イエス・キリスト(的存在)の愛をなめるなよ。と。

生半可な無条件な愛ではないんだぞ。と。
お前が想像しているちっぽけな無条件な愛(0円!※ただし下記事項該当者に限る)みたいなもんではないんだぞ。と。

この無条件な愛っていうのは、お前が、人間が語り尽くすことのできるもんじゃないんだぞ。って言われてる気がしまして。。

そうなると、先ほどの話じゃないですけど、個人的には神様にクリスチャン、無神論者、他の宗教の人、何も信仰していない人などの間の壁とか、そこに対するちっぽけ思いとか全部一気に押し流された気がして。

「あ、これは多分宗教とか色々関係ないんだろうな。本当にこの世に無条件な愛という希望が存在するとしたら、もう全て関係ないな。こりゃ。全て関係ないくらい大きいぞ。宇宙全部飲み込むんだろうな。いっつあユニーバース。」と宇宙と一体化してしまい、いよいよサイエントロジーや他のオカルト新興宗教じみてきちゃったのですが、とりあえずこんな愛の形の輪郭に触れさせてもらったので、この素直な思いを持って今は生きようと思っています。

人はやはり結局自分が信じたいものを信じて、思いたいように思い、好き勝手生きているんですよね。

一人一人の心に渦巻くものから最終的に何が見出せるのか、心を覗く方法すら知らないので、この疑問が解けることはしばらくはないような気がしますが、神様にあった時には何かもう少しわかるとイイナ。

こんなにリアルな信仰を描いた作品他にない

沈黙は、前半はキリストの受難的な話が多く、その中でいわゆる「信仰が試される」出来事が起こり続けていき、歴史にわりかし忠実にキリシタンの迫害を描いているのですが、中盤からそんなわかりやすい信仰&不信仰というラインから一線を画した深さになり、答えのアウトラインを触ることすら難しい苦難にシフトして行きます。

見ている人に問われることも答えをすぐ出せるものではなく、むしろ持っていた答えの塊を解かれ、それがどんどんこんがらがっていくのをただ見続けるしかないという状態になります。

ぶっちゃけ、これが信仰を持たない人たちからどう見えるのか全くわかりません。もしかしたら宗教と関係な人たちには全く持って響かないものなのかもしれないし「何アホくさいことで悩んでるんだ。」と映るかもしません。また日本にいる海外から来た宣教師の方達は自分達の行いを否定されるような気持ちになるかもしれませんし、日本で実際にあったキリシタンの迫害という事実に対してもっと興味がいくものなのかもしれません。

あれ?こいつなんでこんなにマジになってるの?と思うかもしれませんが、それだけこの作品「沈黙」が宗教を信仰している人の心情をそれだけリアルにむき出しにしているのです。だから自分の心をここまで赤裸々に表現されると感情移入せずにはいられないんですよね...トホホ。

あなたの感想に非常に興味があります

とにかく、これを見た感想というのを出来るだけ多くの人と共有して、自分なりにもっともっと奥深く思い耽りたいという思い出いっぱいです。映画を見た方、小説を見た方は是非感想をコメントに書く、ブログを書くなどしてあなたの思いを教えてください。よろしくおねがいします。

*1
*2

追記:これを書いた後映画公式サイトに掲載されたプロダクションノートの一文を見つけて深く同感した。

 スコセッシは、2007年の小説の英語版の序文に次のように書いている。「キリスト教は信仰に基づいていますが、その歴史を研究していくと、信仰が栄えるためには、常に大きな困難を伴いながら、何度も繰り返し順応しなければならなかったことが分かります。これはパラドックスであり、信仰と懐疑は著しく対照なうえ、ひどく痛みを伴うものでもあります。それでも、この2つは関連して起こると思います。一方がもう一方を育てるからです。懐疑は大いなる孤独につながるかもしれないが、本物の信仰、永続的な信仰と共存した場合、最も喜ばしい意味の連帯で終わることが可能です。確信から懐疑へ、孤独へ、そして連帯へというこの困難で逆説的な推移こそ、遠藤がとても良く理解していることです」

 実際、スコセッシがキリスト教最大の悪役と呼ぶユダは、監督がキリスト教神学の中で一番切迫したジレンマの一つとするものを具現化している。

 「ユダの役割とは何か?」とスコセッシは言う。「キリストは彼に何を期待しているのか? 現在の我々は彼に何を期待するか――。遠藤は私が知っているどのアーティストよりも直接的に、ユダの問題に目を向けています」。この問題は「沈黙」に注ぎこまれ、ロドリゴ神父の運命を決定する。

 スコセッシは書いている。「――ゆっくりと、巧みに、遠藤はロドリゴへの形勢を一変させます。『沈黙』は、次のことを大いなる苦しみと共に学ぶ男の話です。つまり、神の愛は彼が知っている以上に謎に包まれ、神は人が思う以上に多くの道を残し、たとえ沈黙をしている時でも常に存在するということです」

本当にその通りだ、今まで宗教自身いろんな地へ渡り変わりつつ残って来たものだ、今や教会の礼拝ってのは昔の慎しみ深い静かな講堂で行われるものではなく、まるで自己啓発セミナーみたいになっている。そういった矛盾を抱えながらもより信仰の本質へ近づこうとした人たちの苦悩というのは、盲目的に誠実に教えを守る信仰とは全く違う次元の話のような気がしている。いや、実際は大した差なんてないんだけども「疑う」か否か、信じるからといって疑いの目を閉じるのか否かということでその信仰の旅路というのは全く違うものになる。それはこの映画のキリシタンと司祭の描写の違いでも描かれていることだと思う。

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*1:この記事は2回目、3回目を観た後で編集・追記するかもしれません。とりあえず、僕も映画を観て再度こんがらがった状態ですがまずはまとまっていない正直な思いをみなさんと共有できればと思います。

*2:映画を観て驚いたのは、小説を読んだ時の印象と同じような感覚に最後まで浸れたことでした。原作が小説だと比較的落胆しがちなものですが、本作に関してはスムーズに小説のイメージとリンクさせることができなんの障壁もなく観れたので、小説を読んだ時に思考したことからさらに深く考え、また当時の時代背景をわかりやすく描いた映像によって、物語への理解を深めることができました。